公開:2017/08/06 伊藤 みさ │更新:2021/09/15
福岡県に広島原爆の残り火「平和の塔」8月6日の炎が燃え続ける場所
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広島に原爆投下された1945年8月6日。あの時の原爆の火が、福岡県八女市星野村の「平和の塔」で、原爆犠牲者への供養の火として今も絶えず燃え続けています。
福岡県八女市星野村。広島から遠く離れたこの山深い場所には平和の塔が建てられ、「平和の火」が燃え続けています。
平和の火は、原子爆弾の投下により焦土と化した広島のまちから、星野村出身の山本達雄さんが身内の形見として持ち帰ったもの。
彼の家族によって守り続けられてきたその火は村が引き継ぎ、1995年3月に「平和の塔」が完成。塔の一番高い場所に火が灯され、今も燃え続けています。
平和の塔に原爆残り火が点火されるまで
1945年8月6日午前8時15分、人類史上はじめての原子爆弾が広島に投下されました。その時に街を焼き尽くした原爆の火が、福岡県の星野村で燃え続けています。
この平和の塔は、福岡県の南部・大分県との県境に位置する星野村の「星のふるさと公園」園内にあります。この地に設置されている説明書きによると、この火が守られてきた由来は以下の通り。
星野村から出征し、陸軍の兵士として軍務についていた山本達雄氏は、広島で被爆。原爆投下直後の地獄を生き延びた山本氏は、広島市内で金正堂書店を営んでいた叔父の安否が気がかりで、数えきれない負傷者と死体の中を探しまわりましたが、とうとう見つけることはできなかった。
戦争が終わって星野村に帰る日、山本氏は叔父が営んでいた書店の跡地下壕に燻る火を形見として、星野村へ持ち帰る。
その後この火は、叔父や多くの尊い生命を奪った「忌みの火」、また原爆犠牲者への「供養の火」として、23年の間密かに家族の手によって守られてきました。
山本さんはこの火を見るたびに当時の広島の惨状や原爆犠牲者の苦しみや原爆や戦争に対する憤り、無念さを思い出す。その胸中は複雑で苦悩に満ちたものでした。
1968年8月6日、原爆の火は「平和を願う供養の火として永遠に灯しつづけよう」と、星野村が引き継ぎます。
山本さんはその後も原爆犠牲者の供養とともに、核戦争の脅威が増していく世界情勢を憂い、核兵器の恐ろしさ・戦争の愚かさを唱え続け、世界恒久平和を念じながら2004年に永眠。
被爆50周年を迎えた1995年3月、平和の広場に「平和の塔」と福岡県原爆被害者団体協議会の「原爆死没者慰霊の碑」を、彫刻家・横澤英一氏設計により一体化したモニュメントとして建立し、世界の恒久平和を願い灯し続けています。
1995年3月に記された記録によると、福岡県内には、広島・長崎に次いで1万余りの被爆者が住んでいたとのこと。犠牲者の冥福を祈ると共にあの日の苦しみを伝え残そうと、慰霊碑が建立されています。
筆者が現地を訪れた時は、炎が見えなかった為 消えているようにも見えましたが、火は常にちゃんとついているとのこと。
この火は、NHK広島放送局の目の前に設置されている「ヒロシマの火 平和への灯」に灯されたほか、ランプに火を分けて平和を願う活動で使用されるなど、様々に広がりをみせています。
平和の塔(星のふるさと公園内) | |
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住所 | 福岡県八女市星野村10821(地図) |
時間 | 園内は自由に立ち入り可能、施設・店ごとに定休日・営業時間が異なります |
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