御幸橋、宇品を繋ぐ橋の風景とカメラマンの足跡
広島市中区と南区を繋ぐ橋、御幸橋(みゆきばし)。巨大なオブジェやモニュメントの意味は?御幸橋に残る中国新聞のカメラマン・松重さんの写真と御幸橋周辺の風景
広島市中区と南区を繋ぐ橋、御幸橋(みゆきばし)。筆者は以前勤めていた会社が宇品にあったため、この橋は毎日渡って通勤していたのですが、巨大なオブジェがあるのが前から気になっていました。
いつもは車で渡っている橋ですが、今回は歩いて渡ってみました。御幸橋は、車も路面電車も走る併用橋で、元々(江戸時代初期頃まで)は、海だった場所。
貿易港が必要だっため、埋立て宇品エリアと宇品港が誕生したことで、御幸橋も1885年に架橋されました。ちなみに、生まれたばかりの御幸橋は長い木橋だったため、長橋(ながはし)と呼ばれていたようですが、
明治天皇が広島を訪問した際にこの橋を渡ったことから、「御幸橋」と橋の名前を改められたようです。
御幸橋にモニュメントがいっぱいあるワケ
御幸橋の入口には丸い照明があり、夜になると灯りがつきます。
御幸橋西詰から川沿いに散歩道があり、車が入れないようにブロックしてあります。
車の進入を止めるポールの代わりに、文鎮みたいなちょっと変わった形のモノが置いてありました。凝っています。
そして、巨大なオブジェ。
説明が見当らず、どういう意味があるのか不明ですが、太陽の光が降り注いでいるので、平和をイメージしたものかもしれません。
川沿いにある散歩道の入口。緑が多くて気持ちの良い散歩道になっています。たまに、ジョギングする人の姿も。
散歩道を入っていくと、右手にモニュメントが。
「おりづるモニュメント」とあり、中を覗いてみると原爆の遺品や写真が飾られていました。
千田小学校の生徒たちからは千羽鶴が。
広島に原爆が投下された日、御幸橋は爆風の影響を受けたものの、なんとか落橋は免れていたため、爆心地から宇品方面へと非難する人たちが御幸橋に詰めかけ混乱していたようです。
この時、中国新聞のカメラマンだった松重美人さんがちょうど通勤の途中で、被爆者の群集でいっぱいの御幸橋を撮影。これらの写真が、いま残っている被爆当日のものとしては唯一の写真になっているのだとか。
そのため、御幸橋の西詰南側には、松重さんが撮影した写真と共に「原爆被災説明板」がモニュメントとして残されています。
被爆地・広島に住む人たちは、平和への意識は他県民と比べて高いほうだと思いますが、それでも時間が経てば記憶や危機感は色あせてしまいがち。こういったモノに出会った時は、リセットする気持ちになれたらいいなと思います。
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