頼山陽史跡資料館
日本を代表する漢学者・頼山陽(らい さんよう)。彼が青少年時代を過ごした屋敷の跡地に建つのが「頼山陽史跡資料館」。頼山陽や江戸時代の広島の歴史などに関する資料の公開・展示・研究が行われています
頼山陽(らい・さんよう 1780~1832)は、江戸時代後期の日本を代表する漢学者・文人。
没後に出版・ベストセラーになった歴史書『日本外史(にほんがいし)』の著者として知られ、幕末の志士たちに多大な影響を与えたと言われています。
頼山陽史跡資料館 入り口
庭園
頼山陽史跡資料館(広島市中区)は、そんな頼山陽が青少年時代を過ごした屋敷の跡地に建てられています。
頼山陽(らい・さんよう)という人物
頼山陽先生像
頼山陽(らい・さんよう)
山陽の生まれは大阪だったが、1781年に広島藩が学問所を創設するに伴い、父・春水(しゅんすい 竹原市出身)が儒学者として登用されたために一家揃って広島に移住。
広島藩から与えられたこの屋敷(現在、頼山陽史跡資料館のある地)で、山陽は11歳~30歳までを過ごす。学問に優れ、詩作にも才能を発揮した山陽は18歳の時に江戸で1年遊学(故郷を離れ勉強)。広島に戻り二十歳で結婚。
21歳で脱藩騒動を起こしたが連れ戻された山陽は、広島の屋敷内に5年幽閉される。(現在の「頼山陽居室」)
山陽は外出を許されないその間に専ら学問に没頭し、のちに彼の代表作となる「日本外史」の原稿を書き上げます。幽閉が解けたのち、山陽は神辺(福山市)や京都に移り住み、様々な著述に励む。1832年、53歳で生涯を閉じた。
参考:pref.hiroshima.lg.jp / 広島県の文化財
頼山陽居室
屋敷の離れで5年間もの間、山陽が幽閉された部屋は「頼山陽居室」として国の史跡に指定されています。(現在在るのは1958年に復元されたもので、当時のものは原爆により焼失)
彼の代表作である「日本外史」の原稿は、ここで書き上げたと伝えられています。この「頼山陽居室」は、資料館開館日に見学可能。
頼山陽史跡資料館では、歴史・文学のほか美術の分野でも活躍した頼山陽や広島の近世文化に関する様々な資料が展示されています。
庭園内に被爆樹「クロガネモチ」
庭園内の頼山陽居室のそばには、被爆樹木であるクロガネモチも保存されています。
被爆したことにより根株を残して焼けてしまったものの、被爆から5年後にその株から芽を吹いたという記録が残っており、現在は5mを超すほど力強く生長しています。
頼山陽史跡資料館 敷地内の様子
昭和10年(1935年)12月に「山陽記念館」が建設されましたが、原爆によって収蔵品の大半は焼失する。
戦後建物は修復され、社会教育施設などに利用されていましたが、老朽化。その後、平成7年(1995年)に広島県が頼山陽史跡資料館として建て替え整備。被爆建物であることも考慮され、正門や塀・石畳などは現状保存されている。
平成27年(2015年)にもリニューアルが行われています。
建物入り口
ロビー
頼山陽史跡資料館の 施設概要
名称 | 頼山陽史跡資料館 |
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住所 | 広島市中区袋町5-15 |
開館時間 | 9時30分~17時(入館は、16時30分まで) |
常設展の入館料 | 一般(200円)・大学生(150円)・65才以上と高校生以下は無料、団体20人以上は割引あり |
電話番号 | 082-298-5051 |
休館日 | 毎週月曜日(祝日・休日には開館し、翌平日に休館とする) 年末年始(12月28日~1月4日) ※臨時に休館する事もあり。 |
備考 | 広島市中区グルメ / 周辺スポット / 中区おでかけマップ |
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