公開:2015/04/05 伊藤 みさ │更新:2022/04/12

原爆ドーム、広島をみつめ続けて100年

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広島の産業を支える役割を担っていた場所が、1945年8月6日以降は 戦争と原爆の悲惨さを伝える建物に。原爆ドームが広島の街を見つめて2015年4月5日で100歳となりました。

広島市の原爆ドームが2015年4月5日で、建設から100年となりました。

1945年8月6日に広島の空で原子爆弾が炸裂。爆心地から160mという距離にあったこの建物(当時は広島県産業奨励館)ですが、一部の壁は崩れ、鉄骨がむき出しになったものの奇跡的に倒壊は免れました。

原爆ドーム、広島をみつめ続けて100年

いつしか市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになり、1996年に核兵器の惨禍(さんか)を伝える建築物として世界文化遺産に登録されました。(※惨禍…天災・人災などによる、むごたらしくいたましい災難)

原爆ドームは月日の経過による劣化を把握するため、1992年以降は原則として3年ごとに「健全度調査」を実施。現在もそのための足場が組まれ、一部カバーもされているため建物自体は見えにくい状態になっています。(足場設置期間は2014年12月から2015年4月25日の予定)

また、今年度は 補修工事を実施する予定。平和祈念式典が行われる8月6日以降にとりかかる予定とされています。

広島の怒涛の100年見つめ続け、歴史を語る

原爆ドームは元々、大正4年(1915年)4月に「広島県物産陳列館」として誕生した建物。チェコ人による設計で、当時としては珍しく大胆なヨーロッパ風デザインの建物で、500坪以上の庭園もあったそう。

広島県内の物産の陳列や商工業に関する調査・相談など広島の産業を盛り上げる役割を担っていた場所であり、珍しくて美しいこの建物は広島の名所の一つに数えられるほどだったといいます。

名称は大正10年(1921年)に「広島県立商品陳列所」、昭和8年(1933年)には「広島県産業奨励館」と改称。戦争の激化につれて館内展示は縮小し、昭和19年(1944年)3月末に館業務は廃止となりました。

広島に華々しく登場したこの建物は、時代の変化と共に名前を変えながら広島の街を100年にわたって見つめ続けてきました。しかし、戦争を知らない世代にとっては「初めてみた時から壊れた姿」であるため老朽化による見た目の変化が分かりにくい。

広島 とうろう流しの画像9
(原爆ドームの一部。夜の様子)

広島 とうろう流しの画像8
原爆ドームが夜にライトアップされた様子

戦争と核兵器の恐ろしさを伝える原爆ドームの姿を維持するのは、普通の耐震工事とは異なるため難しいとされていますが、原爆ドーム横の旧市民球場跡地の活用など変化していく広島の街のそばで、歴史を語り続けてほしいです。

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